Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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タイトル:
患者に対する介入実践の倫理学序論 
    ――「メルロ=ポンティの身体論」から出発して [1]


abstract
The Introduction to The Ethics concerning the practice of intervention toward the Patient――Starting from <The Theory of Body by Maurice Merleau-Ponty> [1]

The main target of this article is to formulate the first stage of the research project which forms the basis of professional education concerning the medical and nursing practice toward the patient (involving the communicative practice of intervention that gives voice to and exchanges words with the patient) by medical or clinical experts. In professional education, we need to get some consensus concerning the anticipating-ideal model that forms the basis of ethical evaluation which is crucial to the practice of intervention by experts before engaging into the practice of fieldwork in any particular area. This article is characterized as the achievement of the first task of constructing the basis of ethical evaluation concerning the practice toward the patient that is the first stage of the task of forming the above-mentioned consensus that anyone which engages professional education in both of the anticipating-ideal level and the following-practical level would get. In accomplishing this task, this article develops its main argument by referring to <The Theory of Body by Maurice Merleau-Ponty>.

Key words: The practice of intervention toward the Patient, Overcoming the binary-oppositional thinking, The Primordial habit


はじめに 
本論は、医療専門職従事者による患者に対する治療的および看護的介入実践――患者に対する声かけや患者との会話などコミュニカティヴな介入実践を含む――に関わる専門教育の基盤となる研究プロジェクトの第一段階を成すことを目指したものである。このような研究プロジェクトは、それがどのような形態をとるものであれ、フィールドワーク実践(個別的現場の視察・専門職従事者および患者とその家族などへの聴き取り調査・実習等)を含み、そういった実践現場へと継続的に接続されていくべきものであろう。だが、そうした実践段階に入る前に、[1]専門職従事者の介入実践に関わる倫理的評価の基盤を成す「先行的・理念的モデル」および[2]そのモデルに基づいた「実践的モデル」(個別的教育・研究プロジェクトの指針)という二つの教育基盤に関わる一定のコンセンサスを得る必要がある。私たちは、白紙の状態でいきなり実践現場へ立ち入るわけにはいかないからだ。もちろんこれらのモデルは、実践現場との接続プロセスにおいて、個々の現場との継続的なフィードバック回路を形成しながら厳しく吟味されなければならない。本論は、この先行的・理念的なレベルおよびそれに引き続く実践的レベルの両面において専門教育に従事する者がコンセンサスを得るという上記課題のうち、患者に対する介入実践に関わる倫理的評価の基盤の構築という端緒の段階(先行的・理念的レベル)を担うものとして位置づけられる。
本論は、上記課題を遂行する上で、主としてメルロ=ポンティの身体論を参照して議論を進める。また、上記課題を設定してメルロ=ポンティの身体論を検討する上での事例として、本論では、切断された四肢を身体経験のなかで保持し続ける症例である「幻影肢」(「幻肢痛」を含むものとする)のメルロ=ポンティによる解釈を取り上げる。その際、導入として、メルロ=ポンティによる「身体図式」の解釈に定位した治療実践の方法論として、ペルフェッティが試みたリハビリテーション認知運動療法の宮本省三による位置づけを参照する。さらに、メルロ=ポンティからペルフェッティにいたる方法論的枠組みの延長線上において、中枢神経系の可塑性変化または再構築に注目するヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランによる「幻影肢」の解釈と治療を位置づけることができること、また「クオリア問題」を経由することにより上記両者のアプローチの限界がメルロ=ポンティの身体論から存在論へと到る道筋において逆照射されるという論点を提示した。本論においては、この論点の提示が、患者に対する介入実践の倫理学の序論として位置づけられる。

第1章は共著により省略

第2章 「メルロ=ポンティの身体論」導入――「自然的世界」から身体論へ
 メルロ=ポンティは、『知覚の現象学』最終章「自由」において、次のように述べている。
「われわれは単に因果性の観念だけではなく、動機づけの観念をも放棄しなければならないだろう。いわゆる動機が私の決心に重圧をかけるのではなく、逆に、私の決心が動機にその力を貸しあたえているのである。われわれが今しがた解き明かしたように、私は、私自身にとっては、およそ自然や歴史によって私がそれで<ある>もの―くる病であるとか美貌とかユダヤ人といった―ではまったくない。たしかに私は、他者に対してはそうしたものであるが、しかし、私は、他者をその視線が私の存在の内にまで達するような一つの意識として措定するか、それとも単なる一個の対象として措定するかに関してつねに自由なのである。」(メルロ=ポンティ 1945=1967.p.497.訳 第2巻pp.342-343.)
ここから、さしあたり次のような問いが可能になる。先に第1章において見た、西村の調査協力者である看護師の「ここにいるすべての患者さんのことを、意識がないというか、そういうところまでの思考もないっていうような捉え方はしていないんです」という語りは、「ここにいるすべての患者」という、何らか一般化された「他者」を、最小限の「意識」または「思考」を有するかもしれない、その意味で何らかの形でのコミュニケーションが可能になるかもしれないという意味での蘇生可能性(属性)を持つ者として措定している。また、そうした属性を持つものとしての記述対象でもあるだろう。このような他者の措定は、先に示唆したように、フッサール的問題圏にある「私自身の反映」としての「私自身の意識から構成された他者の意識の構成」として解釈すべきだろうか。あるいは、上記メルロ=ポンティの言葉における、「他者をその視線が私の存在の内にまで達するような一つの意識として措定する」こととして理解すべきなのか。
しかしここでは、こうした問いに対応する事態の二項対立を想定すべきではない。看護師の語りにおける「ここにいるすべての患者さん」という「他者」は、看護師である「私」にとって、たしかに最小限の意識あるいはコミュニカティヴな蘇生可能性を持つかもしれない「私にとってのここにいるすべての患者さん」なのだが、まさにそうした状況を生きる「私にとってのここにいるすべての患者さん」に他ならないがゆえに、「一個の対象として措定された=私の意識から構成された他者」でしかないのでは決してなく、メルロ=ポンティの言葉に従うなら、たとえ私がそのように自由に措定するのだとしても、それでもなお私の意識から構成し得ない、「その視線が私の存在の内にまで達するような一つの意識」でもある。
他方、「私」は、「私」自身にとっては、およそ自然や歴史によって「私」がそれで<ある>もの―私の偶然的な属性としての「看護師」といった―ではまったくない、端的な「私」である。またその「私」にとっての「私にとってのここにいるすべての患者さん」は、「看護師」としての「私」にとっていまだ言葉を持ち得ない―あるいはすでに「意識」や「思考」を持っているのかもしれない、その意味でいつかこの「私」とコミュニケーションが可能になるかもしれない―者であるが、同時に、「意識がないというか、そういうところまでの思考もないっていうような捉え方」あるいはその否定(「はしていないんです」)といった認識とは無関係に、端的にそれ自体存在する者として存在し続ける。
この端的にそれ自体存在すると同時に、世界あるいは状況のただなかで私の意識が出会う他者(本論はそれを「患者」と呼ぶ)という<両義的な存在>――あるいはそういった他者の存在の<両義性>――を考察していく上で、同じ最終章の「自由」におけるメルロ=ポンティの次の言葉が示唆を与える。
「望みのままにおのれをシリウス星にでも地球の表面にでも置くことのできる思惟的主観としての我れの底に、自然的我れとでもいったものがあって、これが、その地球上の状況から離れることなく、絶えず絶対的な価値づけを素描しているのである。(中略)われわれも見てきたとおり、自然的世界とは、およそ可能なすべての主題とすべてのスタイルの場以外の何ものでもない。それは比類のないひとつの個体であると共に、それと分かちがたくひとつの意味でもあるのだ。それと相関的に、主観の一般性と個人性、さまざまな資格をあたえられた主観性と純粋な主観性、<ひと>の無記名性と意識の無記名性とは、哲学がそのいずれかを選ばねばならぬといった二つの概念ではなく、具体的主観というただひとつの構造の二契機なのである。」(メルロ=ポンティ 1945=1967.p.502,514.訳 第2巻p.350,366.)
ここでは、二項対立的思考の乗り越えという『知覚の現象学』の核となるテーマの探究過程の果てで見出された、「自由」の自然倫理的土台とも呼ぶべき地平が語られている。そこで見出されたのは、絶えず絶対的な価値づけを素描している「自然的我れ」であるが、この「自然的我れ」は、任意の「私」に対する超越的な存在としての<自然>によって絶対的に価値づけられているという意味において「絶対的な価値づけを素描している」のではない。むしろそれは、「およそ可能なすべての主題とすべてのスタイルの場以外の何ものでもないもの」としての、現実化される一切の事象と不可分な「地」としての潜在的な地盤あるいは地平という意味における「自然的な世界」に深く根付いているのである。メルロ=ポンティにとって、「比類のないひとつの個体であると共に、それと分かちがたくひとつの意味でもある」この「自然的な世界」に「外部」は存在しないように見える。先に見たように、この私も、この私にとっての「ここにいるすべての患者さん」という他者も、端的にそれ自体存在すると同時に、世界あるいは状況のただなかで「私」の意識が出会う他者、あるいはこの「私」の意識が出会う他者にとっての他者という<両義性>を有しているのだが、この「自然的世界」は、この<両義性>を「具体的主観というただひとつの構造の二契機」として包み込み、この<両義性>自体は背景に退いてしまったかのようである。だが、二項対立的思考のスタイルの乗り越えという『知覚の現象学』の探究の歩みの果てで消失するかに見えるこの<両義性>こそ、メルロ=ポンティにとって、あらゆる二項対立的思考の乗り越えを可能にしたものではなかったか。
よく知られているように、『知覚の現象学』は、サン=テグジュペリの自伝的小説である『戦う操縦士』からの次の言葉の引用で終わっている。
「きみの息子が炎に包まれていたら、きみはかれを救けだすことだろう……もし障害物があったら、肩で体当たりをするためにきみはきみの肩を売りとばすだろう。きみはきみの行為そのもののうちに宿っているのだ。それがきみなのだ……きみは自分を身代わりにする……きみというものの意味が、まばゆいほど現れてくるのだ。それはきみの義務であり、きみの憎しみであり、きみの愛であり、きみの誠実さであり、きみの発明なのだ……人間というのはさまざまな絆の結節点にすぎない、人間にとっては絆だけが重要なのだ。」(メルロ=ポンティ 1945=1967.p.520.訳 第2巻pp.375-376.)
「息子を炎の中から救出する」という「意味」の地平において、「肩で体当たりをするために自分自身の肩を売りとばす」行為が、人間の絆の結節点としてある。これをメルロ=ポンティに従って言い換えれば、人間とはそうした意味を持った行為としての「さまざまな絆の結節点にすぎない」ものであり、それらあらゆる絆の結節点を包み込む「世界」(「およそ可能なすべての主題とすべてのスタイルの場」)の内にあるのだ。メルロ=ポンティにとって、これが「世界内存在」ということの意味であり、それゆえまったく孤立した人間というものは存在しない。メルロ=ポンティは、こうした基本的な洞察から出発して、『知覚の現象学』にいたる道程において人間の「行動の構造」を分析したのだといえよう。のちにわれわれは、それ以上遡れない意識の質としての「クオリア」を巡る議論を参照するが、上記引用から垣間見られるメルロ=ポンティのスタンスから見るなら、果たして意識というレベルは消すことのできない究極のレベルなのか、あるいはニューロンネットワークの機能に還元してしまえるのか(またはそうしたものとして記述すべきなのか)という意識の「難題 hard problem」がどのように位置づけられるのか見極めなくてはならない。   メルロ=ポンティは、そういった二項対立の乗り越えとして、「自然的世界」に根付いた「自然的我れ」という次元へと行き着いたのではないか。「自然的世界」とは、「主観の一般性と個人性、さまざまな資格をあたえられた主観性と純粋な主観性、<ひと>の無記名性と意識の無記名性」という二元論の彼方で、これら両契機を「具体的主観というただひとつの構造の二契機」として包括する地平としてあるのだが、メルロ=ポンティは、初めからこの「自然的世界」という地平を探究の対象とするのではなく、まずは「身体」という、さまざまな絆の結節点にすぎない人間の経験の場に定位する必要があったのである。
第3章 「動作」から「習慣」への接近――身体論への入り口として
次のような経験の場を想定しよう。患者のリハビリテーションを担当するセラピストが、患者の歩行能力や筋力等の回復レベルを見るために、検査室の中でセラピストから数メートル離れた椅子に座った状態から立ち上がり、いったんセラピストの方へと向かったあとに輪を描くようにして椅子へと帰って再び座るという動作を行うよう患者に指示し、実際にそういった動作がなされたとする。この状況において、患者の一連の動作のなかに、リハビリに対するモチベーション(どれだけ「やる気」になっているのかそれともそうでもないのか)や身体的状態(例えば身体の「軽さ」や「重さ」)などのあらゆる構成要素が、この患者自身にとってはそれだけ分離することのできない、その意味において不可分な経験の構成要素としてすべて含まれている。他方、セラピストは、それまでのリハビリテーションの効果測定として、この一連の動作をビデオに撮り、開始から完了にいたるまでの動作の遂行時間を測定し、その計測時間の長短を一つの評価軸にして患者の「回復度」を解釈することができる。また、こうした個別の「課題」に対する「反応」として、「患者には現状ではどのくらいのやる気がみられるのか」といった解釈枠の内部での記述ができるであろうし、さらにその際、「心理的な要因」を(「身体的状態のみに起因するとは考えられない要因」といった形で)考慮に入れ解釈することも可能である。実際、「これだけリハビリをやったときに、だいたいこれくらいの速度で立ち上がることが目安とされる」という形で定量化可能な評価軸を設定することができる。セラピストにとっては、みずからの個別の働きかけに対してここまでの回復状態にまで患者をもってくることができるという、セラピスト自身のモチベーションに関わる要因を把握する上で、一定の目安としての定量化(数値化)は不可欠であるだろう。だが、大切なことは、その数値あるいはデータを、セラピストがどういう枠組みでとらえるのか、そしてその枠組みに基づいた患者の状態の解釈を患者とどこまで、そしてどのような形で共有できるのかということである。われわれが陥りがちな罠であるが、測定時間の短縮といった一面だけとらえてみても、さらにどれだけ豊かな評価軸のシステムを構築したとしても、ある固有な状況においてセラピストが対面する患者という一個の他者との関わり抜きには、患者にとってもセラピストにとっても、また公共的な議論の地平においても、まったく無意味かつ無効なものになってしまうのである。
たとえば動作時間の短縮なら、「課題」を指示した結果、患者が素早くやってみたところで、患者にとっては「やれといわれたからさっさとこなせばいいんだろう」ということもある。また稀なことかもしれないが、実際にそういった発言がなされるかもしれない。少なくてもこの場合に限るなら、「患者にさしてやる気はなかった」と記述されることになろう。その上で、この「患者にさしてやる気はなかった」という記述の妥当性が問われることになる。いうまでもないことだが、患者の動作に関していかなる「解釈」をしようと、そこでの解釈の枠組みまたは評価軸自身が、患者の動作と解釈者の解釈行為の両者が位置する状況において問われることなしには、それ自体では意味あるものにはなりえない。われわれは、「患者の動作」というものが、一つの不可分な経験でありながら、その動作がそこで生まれる状況におけるその人の表情や情動やものの見方、さらにはその患者という一個の他者にとってのさまざまな他者との関わりといった、容易には汲みつくしがたい複雑さを内包しているのだということをまず理解しなくてはならない。
メルロ=ポンティ的にいうなら、われわれは「信仰」というものがあるから祈るというよりむしろ、祈るという動作を習慣づけられたときに信仰があるといえる。悲しいから涙を流すというよりも、悲しいふるまいとか涙が流れるということを振り返ったときに悲しみというものがある。メルロ=ポンティのいう、意識から身体的な所作(「自己の身体」と不可分な動作)に遡るということはそういうことであるだろう。この点に関して、メルロ=ポンティは次のように述べている。「自己の身体は、始原的な習慣であって、他の一切の習慣を条件づけ、それらを了解できるものとする習慣である。」(メルロ=ポンティ 1945=1967.p.107.訳 第1巻pp.162.) この意味において、われわれが患者をどのように「記述するのか」ということが根底から問われることになる。たとえば、患者が「右手を挙げる」動作を写真、ビデオなどに撮って、それをわれわれがどう記述するのかを問うなら、そもそもその人に関わる生きた情報がなければ記述しようがないであろう。なぜなら、「Aという人が手を挙げた」という記述が正しいかというとそうでもない。考えにくいにしても、この人は意識しないうちに手が挙がっていたということもある。もしくは、遠隔操作されているかもしれない(「遠隔操作」の方法にしてもさまざまな次元で想定できる)。その人との関わりを抜きに、映像だけを見てわれわれがどう記述するのかというという問いは、不可能な問いであり、実際にもできない。したがって、そういう相互作用またはそのつどの状況の中で、われわれは患者の経験を再帰的にどう捉えていくのかという問題が生じる。「手を挙げる」ということから「手が挙がる」ということを差し引いたら一体なにが残るのかというよく知られた問題があるが、先に触れた「やる気」といったものや、さらには「意図」という、必ずしも意識的なものではないであろうが、そういったものをどう考えるのかという根底的な問題がある。
留意しなければならないのは、よくいわれる「(病気を診るのではなく)人を診よ」ということの意味は「(身体的なものだけではなく)心理的なものも含めて診ることである」という、きわめて素朴な形で陥りやすい罠をメルロ=ポンティは批判したはずだということである。つまり、メルロ=ポンティが語っているのは、身体的な要因に加えて心理的な要因も考慮に入れるといった単純なことなのではなく、状況における一つの経験を構成するあらゆる要因の結節点が「自己の身体」としての始原的習慣だということである。
おわりに
例えば、「この患者は、これほど重篤な病態にあって、周りの人の手を借りながらも、なぜ一度も欠かさず歯磨きの習慣を続けることができるのか」という問いが生じる状況があり得る。この患者にとって、歯磨きの習慣という一見単純で、ありふれた日常的所作は、生存そのものに深く根付いた身体図式の次元において、たとえ死に直面するその間際にまで接近したのち途絶するほかないものであったとしても、その生存のすべてを凝縮した始原的習慣としてあり続ける。われわれは、その根源的な事実を、抹消することができないのである。これまでの導入的な論述から、この始原的習慣としての「自己の身体」は、いわば窮めつくせないほどに豊かで複雑な様相において折り畳まれた襞として、われわれの目の前にその姿を現してきた。われわれは、本論[1]に引き続く[2]において、「幻影肢」のメルロ=ポンティによる解釈を検討することによって、この「自己の身体」という次元が、いかにしてそれ自身のあるべき場へと向かっていくのか見定めていくことになる。

【参考文献】
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Ramachandran,V.S. 2003. The emerging mind. Andrew Nurnberg Associates Ltd. London.(山下篤子訳 『脳のなかの幽霊、ふたたび』 角川書店. 2005.)


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